1980年代後半〜90年代に登場した初期のデジタル処理(あるいはマイクロプロセッサ制御)を取り入れたスペクトラムアナライザの掃引(スイープ)は、まさにその「スタート周波数で一度PLLロックをかけ、スイープ中はロックを外してアナログで走らせる」という仕組み(ロック&ロール方式 / Lock and Roll)を採用していました。

この方式がHP 8590Aなどでなぜ採用され、どのように動いていたのかを紐解くと、当時のハードウェアの限界とエンジニアの知恵が見えてきます。

HP 8590A等で採用された「ロック&ロール」の仕組み

当時の技術では、数GHzに及ぶ広い帯域を「PLLでロックを保ったまま、高速かつ完全に連続してスイープさせる(周波数合成する)」ことはコスト的にも回路規模的にも不可能でした。そこでHPが考案したのが以下のステップです。

1. ロック(Lock)フェーズ

スイープを開始する直前(あるいは前のスイープが終わったデッドタイム中)、第1LO(YIG発振器やVCO)の周波数を、基準水晶発振器に同期したPLL回路を使ってスタート周波数に正確にロックさせます。

  • これにより、スイープの開始点の周波数精度(センター周波数やスパンの正確さ)を担保します。

2. ロール(Roll)フェーズ

いざ画面の左端から右端へのスイープが始まると、PLLのループをオープン(切断)にします。そして、あらかじめキャリブレーションされたアナログの「傾斜電圧(ランプ波)」をYIG/VCOの制御端子にダイレクトに叩き込み、アナログで一気に周波数を滑らかに走らせます(ロール)。

  • ループを切ってアナログ電圧で発振器を揺らしているだけなので、この間の周波数変化は完全に位相連続になります。

なぜこの方式が必要だったのか?

メリット:圧倒的な高速性とシンプルな回路

もしポイントごとに真面目にPLLを再ロックさせていたら、1画面(例えば400ポイント)をスイープするのに膨大な時間がかかってしまいます。ロック&ロールであれば、アナログのランプ波の速度だけで決まるため、当時の技術でも「50 ms」といった高速な全帯域スイープが可能でした。また、スイープ中のRF信号にPLLの切り替えノイズ(スプリアスや過渡応答)が乗らないため、アナログIFフィルタできれいに検波できました。

この方式の弱点と「デジタル化」への過渡期

しかし、この方式には当時のエンジニアを悩ませる弱点がありました。

  • 残留FM(周波数の揺らぎ): スイープ中はオープンループ(無制御)なので、発振器自体のノイズや、電源のわずかな揺らぎによって周波数が微妙に「揺れて(FM変調がかかって)」しまいます。

  • 狭いスパン(RBW)の限界: 揺らぎがあるため、RBW(分解能帯域幅)を非常に狭く(例:1 kHz以下に)すると、信号自体がボケてしまい正確に測定できなくなります。

そのため、HP 8590Aなどのミドルクラス機では、広いスパン(Wide Span)ではこの「ロック&ロール(位相連続アナログスイープ)」を使い、狭いスパン(Narrow Span)ではPLLをかけたままステップさせる、あるいは別の固定ローカルに切り替えるといった、涙ぐましいバンド切り替え制御を行っていました。

現代のスペアナとの違い

現代のシグナル・アナライザ(Xシリーズなど)や、Fractional-N PLLが劇的に進化した現代の測定器では、クローズドループ(ロックした状態)のままデジタル的に超高速かつ高精度に周波数をスキャン(あるいは一括FFT処理)できるようになったため、この「一度ロックを外して野生に放つ(ロールする)」というダイナミックなアナログ手法は姿を消していきました。

 

番外: HPのポータブル・スペクトラム・アナライザ 8590A と、その直接の後継・改良モデルである 8590B

一見すると外観や基本性能(測定周波数帯域など)は非常に似ていますが、中身は「アナログ主体の基本設計(A)」から「デジタル処理の本格導入による信頼性と機能性の向上(B)」という、大きな世代交代が行われています。

具体的な主な違いは以下の4点です。

1. 内部アーキテクチャのデジタル化(最大の変更点)

  • 8590A(アナログ色濃い初期型):

    前述の「ロック&ロール」などのアナログ掃引機構をベースにしつつ、表示をデジタル化した過渡期のモデルです。キャリブレーション(校正)データなどの保持もアナログ的な要素が多く残っていました。

  • 8590B(デジタル処理の大幅強化):

    内部のマイクロプロセッサ周辺およびデジタル・イフ(IF)セクション、制御回路が全面的にアップデートされました。これにより、スイープの安定度、周波数の再現性、そして測定データの処理速度が大幅に向上しています。

2. 外部インターフェースと拡張性

  • 8590A:

    オプションを入れない標準状態では、外部出力やリモート制御(HP-IBやRS-232C)の拡張性が限定的、あるいは古い規格に対応していました。

  • 8590B:

    背面のプラグイン・スロット構造(インターフェース・モジュール)が洗練され、HP-IB(GPIB)やRS-232C、パラレル(プリンタ)ポートなどの追加が非常に容易になりました。また、PCからのリモートコマンド(後のSCPI命令の原型となるHP-SLなど)による自動計測への対応力が強化されています。

3. メモリ(保存機能)の強化

  • 8590A:

    波形(トレース)や設定を保存できる内部メモリ(非揮発性RAM)の容量が非常に小さく、数個のトレースしか保存できませんでした。

  • 8590B:

    メモリ容量が拡張され、多くのトレースやセットアップ状態を本体内に保存できるようになりました。さらに、オプションでメモリカード(RAMカード)スロットを搭載できるようになり、外部メディアへのデータ持ち出しが可能になりました。

4. 画面表示と操作性(ファームウェアの進化)

  • 8590Bではファームウェア(内蔵プログラム)が刷新され、画面のフォントが見やすくなったほか、画面脇の「ソフトキー(メニュー選択ボタン)」を使った操作体系がより洗練されました。8590Aに比べて、一発で目的の測定機能(ピーク検索やデルタマーカーなど)にアクセスしやすくなっています。

主な仕様比較

項目 HP 8590A HP 8590B
標準周波数範囲 10 kHz ~ 1.5 GHz 9 kHz ~ 1.8 GHz(わずかに拡大)
デジタル化の度合い コア部はアナログ、表示はデジタル 制御・補正・IFの一部にデジタル技術を本格投入
拡張スロット 限定的(固定オプション対応) カードスロットによる高い柔軟性(HP-IB等)
メモリ(データ保存) 極小 大幅増強(外部メモリカード対応)

総括

8590Aは「高性能なアナログ・スペアナをギリギリまでコンパクトにしてデジタル表示を載せた先駆者」であり、8590Bは「Aの弱点(メモリ不足、拡張性の低さ、アナログ起因の不安定さ)をデジタル技術で解決し、現代的な測定器の基礎を確立した完成形」と言えます。

 

8590Aと8590Bの「周波数精度」に着目すると、ここにもアナログからデジタル(自動補正)への進化が明確に現れています。

さらに、オプションなどで搭載された「周波数カウンタ機能」の有無が、実用上の精度を決定づける大きな要素でした。

この2機種における周波数精度の違いと、周波数カウンタ機能の役割について解説します。

1. 基本的な周波数精度の違い(ローカル発振器の進化)

どちらも基本は「ロック&ロール」方式ですが、8590Bではデジタル制御による内部キャリブレーション(校正)が強化されたため、基本の周波数精度が向上しています。

HP 8590A の周波数精度

  • 課題: スイープ中の周波数の直線性は、主にアナログのランプ波の精度とYIG/VCOの特性に依存していました。そのため、経年変化や温度変化によって、画面上の周波数軸(スパン)がわずかに縮んだり伸びたりする「インクリメンタル誤差」が発生しやすかったです。

  • 精度: スパンが広い場合、中心周波数の誤差は 数MHz 単位になることも珍しくありませんでした。

HP 8590B の周波数精度

  • 進化: 内部のマイクロプロセッサが、発振器の非線形性を補正するデータをより緻密に管理(デジタル補正)できるようになりました。

  • 精度: 8590Aに比べて周波数のドリフトやスパンの歪みが抑えられ、「センター周波数 ±(スパンの数% + 基準クロック精度)」という、当時としては信頼性の高いスペックを安定して叩き出せるようになりました。

2. 「周波数カウンタ機能」による劇的な精度の向上

スペクトラムアナライザの画面上でマーカーを信号のピークに合わせたとき、通常のモードでは「画面のドット(ピクセル)が示す大まかな周波数」しか分かりません。

そこで登場するのが「周波数カウンタ(Marker Counter)機能」です。8590B(および8590Aの特定オプション)では、この機能を使うことで周波数精度が桁違いに向上します。

カウンタ機能の仕組み

マーカーカウンタをONにすると、スペアナは一度スイープを止め、マーカーが置かれた周波数(IF信号)を内部の独立した高精度周波数カウンタ回路に直接放り込みます。

「ロック&ロール」のロール中(野生状態)の大まかな周波数ではなく、内部の基準水晶発振器(10 MHzの基準クロック)と直接比較してガチで周期をカウントするため、スペアナの画面分解能を超えたHzオーダーの正確な周波数をダイレクトにデジタル表示できるようになります。

3. 8590A と 8590B での「カウンタ機能」の扱い

このカウンタ機能(および基準クロック)の搭載状況が、AとBの大きな分水嶺となっています。

8590A:オプション依存が強い

  • 標準状態では、内蔵の基準発振器(タイムベース)の経時変化がやや大きく、周波数カウンタ機能もオプション(Opt 021など)扱い、あるいは外部の精密な10MHz基準信号を入れないと真価を発揮できませんでした。

8590B:より実用的・標準的な機能へ

  • 8590Bでは、内部の基準タイムベース自体の安定度が向上したほか、周波数カウンタ機能がより統合された形で提供されました。

  • これにより、「大まかな波形観測はアナログスイープで高速に行い、正確な周波数を知りたいピンポイントの信号にはマーカーカウンタを当てて、内蔵のカウンタで1 kHzや100 Hz単位まで正確に読み取る」という、現代的なスペアナの使い方が1台で完結するようになりました。

まとめ

  • 8590A: 周波数精度は「画面の目盛りなり(数MHzのズレは許容)」。正確に測るには外部機器や割り切りが必要。

  • 8590B: デジタル補正により素の精度が向上。さらに周波数カウンタ機能の連携が洗練されたことで、狙った信号の周波数をピンポイントで極めて正確に(カウンタ精度で)測定可能になった。

 

下記資料では「Lock and Roll」について詳しく解説されています。

https://hparchive.com/Journals/HPJ-1991-04.pdf

 

出典:Google Gemini (Gemini は AI であり、間違えることがあります。)

 

 

 

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